第5章 彼女は譲らない、何も譲らない。
「橘結衣」橘国政が口を開いた。「化粧の件は、ひとまず問わない」
値踏みするように彼女を見据える。
「だがな。食事の席で、料理を由樹の頭にぶちまける……それが、お前の躾か?」
「父さん、罰してよ!」横で橘由樹が歯ぎしりしながら言った。
橘結衣はくすりと笑う。
「お父さん。由樹が『私が料理を頭にかぶせた』って言ったのだけ、聞くの? その前に、あいつが何をしたかは聞かないの?」
橘国政は一瞬きょとんとし、すぐに顔を険しくして言い返した。
「由樹が何をした?」
「父さん!」橘由樹は即座に橘国政へ振り向く。「俺は晴美に取り分けただけだよ。橘結衣が嫉妬で発狂したんだ。嫉妬心が強すぎるだろ!」
最初は、なぜ橘結衣が急に変わったのか分からなかった。だが一日考えて、答えが出た。
橘結衣は――晴美に嫉妬しているんだ。
そういう、器の小さい女なのだ。
「……『取り分けただけ』?」橘結衣は由樹をまっすぐ見つめた。「回転台を何度も回して、私がまともに食べられないようにしたことは? それは言わないの?」
「してねえ!」由樹は即座に否定し、橘国政に訴えるように指を突きつける。「父さん、こいつの嘘を信じるなよ」
橘結衣は落ち着き払って言った。
「お父さん。食事のとき、翔太兄さんもいましたよね。本人に聞けばいいじゃない」
橘国政はすぐに人をやり、橘翔太を呼ばせた。
「橘翔太。昼の食卓で何があった。由樹は度を越した真似をしたのか?」
橘翔太は、黙って由樹を一度見て、それから結衣へ視線を移した。
会社にいる間ずっと、頭の中にこびりついていた言葉がある。
――『橘翔太。あんたの白々しい正義面、吐き気がする』
なぜ、たった一言がここまで刺さるのか分からない。
彼はこの“妹”を受け入れているわけでもない。なのに、結衣の瞳に宿った嫌悪と冷え切った無関心が、妙に痛かった。
自分は彼女の目に、そんなにも胡散臭い人間に映っているのか。事情も確かめず裁く、そういう男に。
この家の長男として、弟や妹には公平であろうとしてきた――はずだ。
ただ、結衣が戻ってきたせいで晴美が肩身の狭い思いをしている。傷ついた心を抱えた晴美が日ごとに痩せていくのを見ると、どうしても結衣に苛立ちが向いた。
だから由樹が結衣をいじめても、見て見ぬふりをした。
「……どうした。黙ったままだぞ」橘国政が不審そうに言う。
橘翔太は我に返り、仕方なさそうに息を吐いた。
「……由樹は、食卓で確かに橘結衣にちょっかいを出してた。いじめてたと言っていい」
その瞬間、橘由樹が目を見開く。
「……兄貴?」
何だよ、それ。
「父さん、俺は用がある。先に失礼する」橘翔太は由樹の視線を受け取らないふりをして言った。
「行け」
書斎の扉が開いて閉まる。
橘由樹は悔しそうに言い募った。
「父さん! 元太兄さんに失礼な態度を取ったのは橘結衣が先だろ。だから俺も、ああしたんだ!」
「橘結衣は晴美に嫉妬してるんだよ」
結衣が戻ってから気づいた。彼女には嫉妬も計算もある。
皆の前ではおとなしく振る舞って、取り入って――晴美を追い出すつもりなんだ。
そんなこと、絶対にさせない。
橘結衣は小さく笑い、ゆっくりと言った。
「うん。そりゃ嫉妬するよ。橘晴美は、あなたたちが手のひらに乗せて大事にしてる宝物だもんね」
「橘結衣、言い方を改めなさい」橘礼子は眉をひそめた。「あなたを橘家のお嬢様として公にしないのは、晴美の立場が苦しくならないように――」
「晴美の立場?」
橘結衣は口元を歪めた。
「じゃあ私は? 私の立場は苦しくないの? それとも、苦しくてもどうでもいいってこと?」
前の人生なら、彼女は本気で気にしていなかった。
お嬢様の肩書きなどなくてもいい。隠されても構わない。
父と母と、兄たちと――家族と一緒にいられるだけで幸せだった。本当に。
でも今は違う。
自分のものを、どうして他人に差し出さなきゃいけない。
もう譲らない。
何も、ひとつも。
橘晴美が欲しいなら奪いに来ればいい。相手になってやる。
橘家の血を引かない橘晴美が勝つのか、それとも――正真正銘の橘家の娘である自分が勝つのか。
「橘晴美」
橘結衣は、部屋の隅に立つ彼女へ視線を投げた。もともと冷ややかな声が、さらに低く沈む。
「あなた、偽物だよ」
橘晴美は息を呑んだ。
指を向けられ、どうしていいか分からないまま手を握りしめる。
結衣は何をする気なの?
自分の持っているものを、全部奪い返すつもり?
だめ。
奪われたくない。
橘晴美の目が一気に赤くなり、涙が溜まっていく。
「橘結衣、お前、何言ってんだよ!」橘由樹が爆発した。「晴美が偽物なわけないだろ。晴美は俺の妹だ!」
忌々しい。
結衣が、こんな形で晴美を脅すなんて。
由樹は慌てて晴美の涙を拭いながら言った。
「晴美、泣くな。あいつの言うことなんてクソだ。橘家のお嬢様はお前だけだよ。橘結衣なんか、何でもねえ」
橘元太も、痛ましそうに晴美を見て頷く。
「そうだ、晴美。橘結衣の言葉を真に受けるな」
橘結衣は、その“兄妹の情”を淡々と眺めた。
「ねえ、何なの? お父さんの子でもないのに、橘家のお嬢様の座にしがみつくのって。贅沢な暮らしに慣れちゃって、山に戻るのが嫌なの?」
「でもさ。私のものを奪って平気なの?」
「そんなにお嬢様がやりたいなら、生まれる場所くらい選べばよかったのに。わざわざ人のものを奪いに来るなんて」橘結衣は容赦しない。「……恥ずかしくないの?」
橘晴美は、さらに激しく泣き出した。息が上ずり、言葉にならない。
「うっ……うぅ……違う……私……ただ、お父さんとお母さんが……好きで……」
由樹は涙を拭う手も追いつかず、結衣を睨みつける。
「黙れ!」
「取り替えたくせに、言うなって?」橘結衣は唇を尖らせた。「私、やっと山から降りてきたの。使用人の娘として扱われるために来たわけじゃない。私はお嬢様として戻ってきたんだけど? それじゃなきゃ、降りてくる意味がないでしょ」
「私をお嬢様にしないなら、いいよ。出ていく」
「出ていけばいいんでしょ」
橘結衣は踵を返し、そのまま出ていこうとした。まるで、この家に未練など一切ないというように。
橘国政の目がわずかに見開かれ、すぐ我に返って叫ぶ。
「戻れ! 橘結衣!」
結衣を行かせるわけにはいかない。
橘国政は血筋に異様なほど執着する男だ。
橘晴美は可愛い。だが、彼女の体に流れているのは、別の男と別の女の血だ。自分の血筋は継げない。
自分の血を引く娘は、橘結衣ただ一人。
だからこそ、取り違えを知った瞬間に彼女を連れ戻したのだ。
橘結衣は皆に背を向けたまま、片足を玄関の外へ踏み出していた。橘国政の声を聞いた瞬間、瞳の奥に冷たい笑みが走る。
今はまだ、すべてが起きる前。
橘国政が四年後のように彼女に失望し切ってはいない。利用価値があると思う限り、山へ帰すはずがない。
橘結衣は振り向き、無邪気に目を輝かせて言った。
「お父さん、私がお嬢様でいいってこと?」
